□□□ Voices in a Vacuum □□□



我不可以動......

このごろ、動けなくって、動けなくって、すごく困る。
私のこの性格を形作った要因ははいったい何だろう。
無駄に提案を繰り返すのはなぜだろう。
(無駄に、という言葉は、地味に、という言葉と共にこのごろなんだかネタ化されているように思う。)
思いついて、でも、観念的な考えが、漠然と湧いて、それに絡まって、結局動けなくなる。
このままでは自分の体が捩れていくばかりで、
私の体の外には何も生み出されない。

そういう時、自分から何も表出できないとき、他の人の何らかの作品に共鳴することは出来る。そういうとき、アートと呼ばれるものにはやはり意味があるかもしれない、という半ば逆説的な感情が起こる。
表現することはもちろんその表現者の感性や思想が核になっているのだけど、
その周縁の波紋に他者である自分を投入することは出来る。
それで自分の表現を代替できるとまでは言わないし、言いたくないけれども、
ただ、これがアートの重要な効用の一つだとは思う。

私は、前にもここに書いた気もするが、
映画や小説を鑑賞して泣いたことはほとんどない。
いや、あることはあるが、それはすべてその作品から自分のことに
連結させて、考えが無意識に自分側へ流出して、自分のために泣いた。
それも、一つの鑑賞方法かも知れない。
でも、欲を言えば、もうそろそろ純粋に作品に感動して泣けるくらい大人になりたい。

さきほども、他人の詩を読んでいて危うく泣きそうになったが、
やはりそれはその文章に直接感動したからではない。
もちろん、秀作な詩だと思うし、高く評価はするのだけど。
そのような文章を書くことについて、書ける事について、など、
さまざまなことが頭をよぎった。その詩にとってはまるで雑音のような複雑さで。
私の感情を動かしたのはそっちの雑音のほうである。
「重要な効用」とかいった舌の乾かぬうちから、別のことを言うが、
これって、ちょっと作者には失礼なことかもしれない。
・・・そういう余波も含めてその詩は成り立っているといっていいのだろうか。


ただ、泣く、っていうのは感情がせき止められなくてあふれ出した結果だろ、
って考えると、それが何を要因としていようと、まだこれだけの感情は残っていたんだ、
と思えて、ある程度の若さとかも感じられて、悪くはない。

わけもない切なさというのは誰にでも感じられるところだと思うけど、それは、そのこみ上げる感情を言葉でうまく言い表せないから、そしてその感情の勢いがとめられないものの表に出すことも出来なくなっているから自分のからだの内部を突き刺すのだろう。

唐突で取りとめもない文章を書いてしまった。
でも、これを書くことで、押し寄せてくる、自分の中の名づけられそうもない複雑な感情を分解して言葉にしていくことで、私は結果として泣くことはなかった。
という、この文章を裏付ける事実は得られたのだった。
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by girty_haraguchi | 2004-08-26 11:37
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