□□□ Voices in a Vacuum □□□



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彼、ゆかいな仲間、募集してます。

ちかごろブログ更新が滞り気味。
今日、これだけは書いておきます。

わたくしの友人、あくつがweb上評論仲間を探しておりまするので、ここでも宣伝~。

  これ → http://web.sfc.keio.ac.jp/~s04011ta/index.html


簡単に言うと、この↑HP上でみんなで文学とか映画とか音楽とかそういうの
楽しんで・紹介して・広めて(・自分らでも創って)いこーぜ、って企画だと思うな。
つーか、カッコ内、けっこう重要だと思うな。
どうなんだろ。
詳しいことは本人にきいてみよう♪↓ (いや、ほんと、興味ある人ここから飛んで頂戴よ)

  あくつブログ → http://akutu.exblog.jp/
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by girty_haraguchi | 2004-07-30 02:06

あと一日

高校のときは実質一学期は10日くらいには授業が終わっていたため、
もう、ほんとイライラしてくる。。。

イライラしたからブログ更新、なんて、なんて無駄な行為だ。。。
このさい、さらに無駄に無駄に
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更新しよう。画像も無駄にアップロードしよう。

今は、上妻(あがつま)というビート・シンセ系三味線弾きのMDを聞いている。
結構これ勉強中かけるのは効率的。
あと、MAKSIMという、鍵盤の貴公子という称号を持つビート・グルーヴ系(?)ピアニストもかなりいかす。
微妙にGreen DayとかもこのごろBGM。

PCと仲良くしすぎで肩が凝っていて、日本茶を飲んでいて、上記のように三味線で、
夜の虫の鳴き声が聞こえていて、涼しくて、メッセはサインインしながらオフライン設定で、
幼稚園の年長のときパパと一緒につくった紙粘土の兎がこっちをみて笑っている。
これがドニー・ダーコの兎によく似てるんだ、また。


今、未来派・ダダイズム・シュルレアリスム、の影響をうけてつくられたモダニズム詩を読んでみよう週間。
詩人町田康、歌人穂村弘はかれらの後継者といってもいいのではないかと思っている。

ああっ、いらいらする。。。
このごろ夢をみないことにもいらいらする。。。
心の中が、記憶が、脳髄の中が、貧しいようだ。。。。
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by girty_haraguchi | 2004-07-26 21:51

++アジカンとナンバガの間++

なんだか、エキサイトブログがまた便利度が向上したらしい。
ありがとう、エキサイト。
HTMLを完全使わずに文字や段落の設定が出来るようになった。
メールと同じで、勝手にHTMLをつけてくれる仕組み。
いままでめんどくさがって太字も色もほぼ使わなかったが、クリック一つなら使ってしまうかもしれぬ。
いやぁ、楽~。

昨日、母親と妹が「なんとなく」文庫本を買う気になって何冊か買ってきたというので、
普段本とか読まないくせに、ナツイチのノリで勝っちまってるこせに、
と、思いながら、
自分はそれに対抗して、もとい、便乗して、本を久しぶりに定価で買った。

萩原朔太郎詩集(河上徹太郎 選) と 「愛の試み」(福永武彦 著)

結構いかすラインナップではないかなぁ。
この二冊に中島敦とワイルドと乱歩なんか足してしまったら、
どこまでも孤独で、芸術的で、哲学的で、幻想的で、耽美で、論理的で幸せな時を過ごせそうだ。
素敵♪

音楽市場的に次のテーマはなんだろう、と考えてみた。
ここ数年最近、隆盛したもの
→普遍的にだが愛LOVE系。 癒し系。 元気(励ます)系 漢字(鬼塚っぽい)系

そして、切ない系がヒットした。 
例えば、ナンバーガールの1st、バンプオブチキン、アジアンカンフージェネレーションなど。
せつねぇ~って感じの音を出すひとびと。
なんか、こう、生きてて、その時間が自分が仲間がいとおしくてたまらない、みたいな。
「僕たちは今を生きているんだ、それしかないんだ」みたいな。
その、はかなさ。心細さ。存在の不確かなのを確かめようとする、みたいな。
焦燥感とか疎外感とか。

で、その次にくるのは一体なにか?というと、そろそろかつての林檎的なブームがくるのでは、と思うのだ。
とくに、林檎のメスも部分を取り除いたような、ちょっと無機質でちょっと難しい用語つかったりして詩としての観賞価値もあるような、ちょっと奇怪でシュールなような。

じゃ、そーいう歌詞作ってみょーう♪
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by girty_haraguchi | 2004-07-24 01:47

実は、自分もこうなるかもしれなかった。

課題が、まだ残っている。
10000字+4000字。
がんばるぞ。
よし、ブログ書いて、気合入れっぞ。(違・・・。

―― 最近の若者について ――

今日、NEETという言葉を知った。
No Education Emoploy Training の略で、学生でも職についているんでもフリーターですらない人々を指すそうだ。そして、NEET=ひきこもり、というわけではない。
イギリスなどの欧州で指摘されていて、日本でもあるじゃないかという視点での本をごく軽く立ち読み。後でタイトルも載せておこう。
イメージとしては、ブリティッシュ映画「トレイン・スポッティング」の若者のような感じ。
「何かやろうという気がおきない。でもいざとなったらやりますよ、僕だって。」
という感じらしい。
自分は、要するにNEETとはいつかここで書いた「可能性」という泥沼にとらわれちゃってる人のかな、と思ったのだった。
自分に合う仕事が見つからない、そんな仕事どうせない、できないのであきらめる、でも、どこかに自分らしい仕事ってあるんじゃないか、という確信のない何かを信じている。
小さいことでもいいから、どこかで「納得」して行動したいんだ、とインタビューされた人が答えていた。「納得」というのがまだあまりに純粋な子供なんじゃなかろうか。そこは大人だったらいろいろ妥協というものでごまかして覆い隠すのではなかろうか。 
自分は大学に通っているのでとりあえずそこまで放し飼いになって放って置かれることはないのでひとまず安心だが、油断してはいけない。が、NEETの考え方も捨ててはいけない。
①自分の可能性を考えるより先前に進むこと。
②そして、、、逆に、、、全て妥協で諦めてしまわないこと。
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by girty_haraguchi | 2004-07-22 02:03

ここ数日

この頃、高校1年頃に分からせてもらったことを、再認識させられている気がする。

人の心を開くには、まず、自分の心を開くこと。
相手がうざがっても、断ってきても、一方的でもいいから、とにかく開くこと。

と、いう。
文字にすると簡単そうですが、これが出来る人はすごいと内心思う。
自分で実践して分かったわけじゃなく、いつも自分はそれを受身の形で体験しているような、そんな気がする。
自分にはそういう、自分を売り込んでいく自信が無いので、
やっぱり相手に拒否られるのがこわいので、
結構これ、難しいんですよね。

それから、私の経験上では、最初から好印象だった人の印象は勿論いいのだが、
最初嫌いだったがあるとき突然、もしくは時間がたつにつれて、
逆に好きになっている(いく)という、そういう過程を通すとさらに印象は深まると思われる。
実際、高校の頃の友達で一番親密(だと私が勝手に思っている)のは、知り合った1年間は大っ嫌いだった人である。。。。
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by girty_haraguchi | 2004-07-19 08:54

省エネ

一、中学高校の校則で、
夏、温度がある一定以下にならない限りという条件付で、セーター及びベスト着用禁止令をつくること!

一、社会人も夏にスーツの上着を着る風習を滅却すること。さらに、なるべくなら、ハーフパンツにして、デザインを工夫してなんとかして、新たな省エネルックを編み出すこと!

それから、また強調しておきたいのが、傘にはカバーを元からつけとくこと!

それから、トイレの手に温風吹き付ける機械は即刻取りやめること!

それから、音姫もさっさとやめること!みんなでやればこわくないぞ!

それから、歯磨きしてる間は水を止めること!

・・・・・なんだか、無駄が多すぎて。
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by girty_haraguchi | 2004-07-18 22:53

・・・∞無限∞・・・ (かなり長い)

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この、無限について、は何度も消してしまって、もう何度目か良く分からない。。
それにしても、前回ややでかい話をぶった割りに、書こうと思っているのは、
ふつうに、思いつくままの観念論である。
でも、やっぱりこういう思いつくままの、漠然とした閃きは形に残しておきたい。

自分が中学生の頃、初めてのPNを←ZERO*MUGEN→とかいうものにしてしまったくらい(その時は無限と夢幻をかけていた)、自分は無限というイメージが好きだ。
このことは、前に少し書いた可能性のイメージや、宇宙のイメージとやや似ていて、結論としては可能性の概念と同じになってしまうかもしれない。

しかし、ほんとに自分にとって、ここは大事なところ。
他の人にとっても、きっと大事なところ。

数学の某H先生が無限大の説明をするとき「無限というのは現実の自然界には絶対存在しない、人間の頭の中、理論上でのみ存在するものだ」といっていた。
つまり、無限に広がっている宇宙や無限に小さくなっていく原子を計算することは出来るが、実際にはそのようなものは存在しない、ということだ。

<<不幸にも、人間は無限性・永遠性の概念を有している。>>

二つの現代文芸の課題は私にとっては根本は同じだった。
①「出家とその弟子」( )
←課題「若いときと年をとったときのさみしさは種類がちがう、とはどういう意味か」
②「銀河鉄道の夜」(宮沢賢治)
←課題「ジョバンニのいうかなしさはどういうことか」

①:作品中に「若いときのさみしさは対象で癒されるが年をとってからのは癒されない」というような台詞がある。対象、というのは大部分は恋愛だろうがあるいは仕事、趣味など、ともかくその人が自分の全身全霊を注げるものである。
私は、恋愛には疎いほうだが、自論としては、恋愛とは相手のことを思うことではなくして、あくまで自分のために行う行為だと思う。
小さい頃から思っていた。
みんな、「あなたが好き」なんではなく、「あなたが好きな私が好き」もしくは「あなたが好きな状態が好き」なんだろう、と。
実際、多分私は自分のことが一番好きだ。
そう、話を戻すと、愛情というものはなにかポジティブな力関係で生まれるものではなく、自分のなかにたまったさみしさを処理するために姿を変えてあふれ出てきたネガティブなものに違いない。(ただ、結果的にはポジティブな影響を与えるが)だから、若いうちは、それを注がせてくれる器(対象)があればそれですむ。しかし、年をとってその対象物がなんども変わったり、死んでしまったりしてその淋しさから変換した愛情の矛先が消失してしまっても、なお、淋しさは消えないということを知る。人間は計算的な頭脳の中のみならず、感情的にも無限を創出する。であるので、その無限の淋しさによる穴は現実には埋めきることができないのだ。

②:ジョバンニのかなしみは、やはり無限と現実の非無限性のギャップ、この場合は生死の次元においてに発生する。このとき、銀河鉄道に一緒にのっているカムパネルラがたまたま同席した女の子と話し出して、彼はかなしくなったという流れなのだが、彼を悲しませたのはその事自体ではなく、その「変化」というところにあったのだと思う。ジョバン二とカムパネルラはずっと一緒に話してずっと一緒に行く、はずだったのに、カムパネルラの注意が彼からそれた。安定していて永遠に続く、続いてほしいと思っていたものが不意に断絶した。そこに不安を感じたのは、そこになにかしら、死という最大の変化の片鱗を垣間見た、少なくともその可能性の存在を若干なりとも感じ取ったからではないか。ジョバンニはずっと銀河鉄道に乗っていたいと思う、また、小さい青い炎というものをじっと見つめると安心する、とある。これらは永遠性(無限性)のシンボルであり、彼はそれを通して現実では実現されない永遠性を見ているのだろう。


私自身、まだ無限の世界にいたいという気持ちがあって、それはすなわち現実を見ていないというところに通じるのだが、もう、現実界に入らなくてはならないのかな、とか思ったりする。
要するに、私は成長を拒んでいるだけだと思うときがあるのです。
バイトをするとき、塾なので、スーツを着なくてはならない。
スーツはさすがに性別がはっきり区別される。夏用にヒールのある靴まで買った。
男性用のスーツを着るわけにはいかない。中性なんて、現実にはありえない。
そんな無限性をもった人間はありえない。
(もちろん生物学的に中性のインターセクシャルという性別の人はいらっしゃいますが)
要するに、私は、女性になりたくないのだ。
じゃ、何になるの? そこで、私の思考は完全に停止してしまう。
本当に、論理で詰めてきても、そこからは私は何も考えられない。
と、いうよりは、考えたくないだけだ、きっと。
考えなくちゃ、と思ってるのに、考えられない。   
                                これは、どうすればいいの?


先日、夜の海に行きました。
なんだかなつかしくて楽しかった。
海に至近距離で近づいたのは、もう何年も昔のような気がしまして。
その時、缶コーヒーを手に持っていて、それを海に注いでしまっても良かったのだが、
この生き物のような海を自らの手で混合物にしてしまうのはなんだかためらわれて。

真っ黒い海は、
           吸い込んでいく光
   
をまるで惰性のように鈍く反射して、うん、吸った息を吐く、                                                      その過程の模倣。

その内に込めた光が質量を持っているかのようにうねりは緩慢に。バイオリズム。
          
               いつまでも。 反復。 いつまでも。
      
         これも一種の永遠性のシンボルではないかしらん。
やっぱり私も、
つかのまの、表層の、まやかしの、幸せなる永遠性を、夢見てやまないのだろうなぁ。

そう、シンボル、これについてのレポートを早く書かなくちゃ。
ああ、なんで日記までレポート化・・・?
でも、こういうレポートって楽しくないですかね。(笑
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by girty_haraguchi | 2004-07-16 02:09

追加

前述のイラク人青年、サラーム・パックス氏のブログURLはこちら
                               ↓
                       http://dear_raed.blogspot.com

ちなみに「サラーム」はアラビア語、「パックス」はラテン語で、両方とも意味は「平和」。
ブログ名は「Where is Raed」という。ラエドという友人への呼び掛けの形式をとっているが、内容的には世界全体への呼びかけにもなっている。
アラビア語で書こうとか書きたいとか言いつつも、このページは英語で書かれている。
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by girty_haraguchi | 2004-07-15 22:10

web×blog

昨日、SFC REVIEWが無料配布されていて、しかも友人が配布していたので
一部いただいて、全ページ読破いたしました。

KEIO SFC REVIEW→慶應義塾大学 湘南藤沢学会が年4回発行している雑誌。

今まで存在は知っていたけれど、(意識して)読んだのは(多分)初めてで、結構勉強になったというか、なんつーか、また焦らされた。(笑

特集は「つながり放題!?」というタイトルでの新しいネットワークコミュニケーション、特に今流行のSNS(Social Networking System)や、メッセンジャー、SFCの授業のネットの利用法などで、ある意味当たり前だなと思うようなことも2割くらいありましたが、大部分で私はいろいろ考えさせられました。
「いろいろ考えさせられる」というのは雑誌あるいはメディア全般において大変重要な価値基準ではないか。私は、SFC REVIEW、そういう意味で質の高い雑誌だな、と昨日の夜素直に壮思いました。

あ、話がそれてしまった。
して、特に私が面白いと思ったのは、ブログに期待される活用法・現在の状況についてであった。
自は最初、ブログと個人ページを区別がついてなかったけど、そこの区別が肝心なんですよね。
なんとなく日記かいてるだけだと、トラックバック機能ってちょっとした楽しいオプションくらいにしか思えないときもあるだろうけど、これが実はかなり画期的。
単なる日記にしてしまうのではなく、本来ならここでも読者に「いろいろ考えさせる」というレベルを達成したいところ。読者を想定しない個人のぼやき、愚痴としてではなく、
(もちろんそこまで意味の無い言葉は乗せた覚えが無いですが)
ある意味、一人の記者として、記事を書くという意識が必要。
で、トラックバック機能をどんどん使ってもらえるような状況にして、自分も他人のブログ(記事)をについてはトラックバックで意見をのせる。
そうしていくことによって、一人が発した意見がそこでブレストされて活性化する。
で、システム的に多数につながっているので他のブログ日記から飛んできた人がその記事とトラックバックを一緒に読む。で、また意見が生まれる。

BBSでも同じことが起きているじゃないか、とも思えるけど、BBSとの違いはやはり中心となる記者がいることだろう。同じ人の意見が時系列的にまとめて読める。
今の状況ではどこを見てもそれほどトラックバックは使われていないので、みんな使いづらいんじゃないかと思う。目立ちますから。
しかし、そこをみんなでもっと活用していこう、と私は言いたい。

と、いうことで、今日は不特定多数の方がこれを読んでいるかもしれない可能性を特に意識して書きました。
ここまで読んでくださって、ありがとうvv
これから良い文章載せられるように、がんばります。
そして、この新しいネットワークシステムでもっと新しいことを期待します。
みんな、せっかくだから、自分の意見がんがん乗せてください。

しかし、もちろん、良い点ばかりではない。
自分の思ってることをネットに乗っけるということは、自分が思ってるより大変なことで、私は今のところ大丈夫ですが、(笑 規模小さいしね)
誰かの反発をかって反対意見でWEB上でぼこぼこにたたかれるとか、
個人情報の漏洩で自分や自分が記事にしてしまった友達(!)が現実社会で被害を受けるなど、危険も沢山あります。これらへの意識や克服方法は、これからの課題。

そんなことを考えさせてもらったSFC REVIEW。
別に関係者ではないですが、まだ読んで無い人は読んでみては?
無料だし。 と、こういう宣伝にもブログは向いてますよね。
リンクリンクの世界なので。

:追記:
そもそも、私がブログという言葉を知ったのはたしか去年の冬頃。
「サラーム・パックス」というイラク人青年(と自称する。私はそれを信じる)が運営しているブログが話題になっていたらしく、もっとみんなに読んでもらいたいと思った日本人が翻訳し、本にまとめたものを読んで、「ブログ」「ブロガー」という言葉を知った。
イラクの砲弾が飛び交う町で、日常を送る思慮ぶかい、ごく普通な若者の存在を再認識できる記事で、本を買う必要は無いかもしれないけど、あとでURL乗っけておきます。
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by girty_haraguchi | 2004-07-15 14:21

馬鈴薯党

なんだか、ブログ日記つけてる人で、自分ほど頻繁に書いてる人を見かけない。
暇人の基準のようで、ややイラつくのだが、弁解させてもらうと、自分は今までも(紙で)日記を書く時期はクソ書いてたので、別に、今回に限ってって意味ではなく、・・・・って、ぜんぜん弁解になってないか。

継続は、力なり。
文章は書き出すととどまるところを知りません。
しかしもう少し簡潔に書けてもよさそうなものだけど。
が、しかし、これは金とって読んでもらってる職業作家の人だってウェブではてきとーに文章書いているわけであり、別に、別に、いくら読みにくくても長くていらいらしても、許されがたきことではないのでありますな。
別に。

今日は、フラ語で寸劇をやる関係のグルワと体育の補講であった。
(ほんとは先週発表だったのだがあまりに自分らがクソだったので、再チャレンジを許されたので、マジ単位かかってるのです)
体育の補講やりに、ってほとんど遊びに行ったようなもんだ。
卓球。一年触ってなかったらもう屑になっていて、ややショックだった。
受験時代、自習室のとなりに卓球台があったのをどれだけ我慢したことか・・。
いえ、単に一緒にやる人がなかなかいなかったという説もあるが。

フラ語の寸劇のがなかなか決まらないというか、人がなかなか集まらなくて、
やや、苛立ちます。
(なんで、定刻に来れないのだ・・・・・・!? )
SFCにいると、いつまでもいられる感があって、さっさと切り上げようって空気が薄い。
自分も、他人も、締まりなくだらだらしてるのがやっぱり苛立つ。
そういうのとまったりするというのとって違うとおもいます。
効率的に生きたいものです。
時間は限りがあるんだよ・・・時間をほっとくと、いつのまにかもう死んでるんだぜ。。

今日は、国木田独歩の「牛肉と馬鈴薯」を読んだ。
彼らの時代は、北海道にずいぶんな幻想を持っていたらしく、なにしろ同志社と農学校のキリスト教の時代でもあるし、馬鈴薯党と牛肉党とかいって話を進めているのだが、この話の内容にもだが、昔の人もこうやって友達と談義をするという状況自体が面白い感じがする。
自分は、「昔の人」ノスタルジーを持ってるきらいがあって、昔の人をやけに尊敬していて、今と同じで昔もこうだったのかとかいうことを知ると無性にうれしくなる。

冬のソナタ。
ややSFッぽくなるが、このドラマでは(もう言っちゃっていいですよね、放送済みだし)
一度記憶喪失になって、それに別の記憶を植えつけられた人間が出てくるが、それが、昔の記憶がまた復活するのだが、二重の記憶を持つってどんな感じだろうか。
記憶を刷り込むって、案外出来るという感覚はする。
実際、自分の幼児期の記憶も後々親の話と写真で作られているようなものだから。
そのことはまた少し「言語とヒューマニティ」でも扱った。。。
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by girty_haraguchi | 2004-07-11 02:38


□忘却予防□